司馬遷の『史記』は、中国の正史とされている古い歴史書です。全130巻、52万6千余字からなり、約3000年にわたる歴史を記録しています。
今回は、岩波書店の『史記列伝』(ワイド版岩波文庫)を読みます。
「列伝」とは?
「列伝」とは、130巻ある『史記』の中で、人物にクローズアップした部分です。『史記』は、以下の5部に分類されます。巻数の配分からも「列伝」が、史記の中心的な内容となっていることがわかります。
- 本紀(12巻)
帝王(時代ごとの最高権力者)の事績を年代順に記録。 - 表(10巻)
歴史の流れを一覧できるよう、年表形式にまとめたもの。 - 書(8巻)
礼楽・天文・律暦・経済など、制度や文化をテーマごとに解説。 - 世家(30巻)
有力諸侯や名門の系譜や事績。 - 列伝(70巻)
武将・学者・商人など多様な人物の伝記。
『史記』は、単に事実を並べるだけの歴史書ではないことが魅力です。
人物の性格や心の葛藤を感じさせるような文、司馬遷の批評や読者への問いかけには、胸を打つものがあります。『史記』は、文学作品としても評価されてきました。
司馬遷の一生
司馬遷の一生も波乱に満ちたものでした。彼が130巻もの歴史書を書き上げたことは、壮絶な戦いの果ての勝利宣言とも呼べるものです。
生い立ちと試練
父・司馬談は、武帝に仕えた太史令(天文や暦、歴史を司る官職)でした。司馬遷はその跡を継ぐべく教育を受けたことは想像に難くありません。父の死後は、その遺志を継いで太史令となり、歴史の編纂に着手しました。
李陵事件と宮刑
武帝の時代、将軍李陵が匈奴との戦いで降伏した際、司馬遷は李陵の奮戦を評価し、やむを得ぬ降伏だったと弁護しました。これが武帝の逆鱗に触れ、司馬遷は投獄されます。
さらに李陵が寝返ったとの誤報により事態は悪化、司馬遷は宮刑(去勢)となりました。
当時、宮刑は死に等しい屈辱でした。しかし、司馬遷は『史記』を完成させるために「生きる道」を選びます。
長い年月をかけ『史記』は完成しました。
当時の歴史書の編纂は全てが手作業であり、資料や情報の収集も容易ではありません。続けるべきか、断念せざるを得ないか、そんな葛藤も多々あったのではないでしょうか。
私は、当時の司馬遷と会話するような気持ちで、『史記』の「列伝」を読みたいと思います。
1.伯夷列伝
「列伝」の冒頭を飾るのは「伯夷と叔斉」です。
概要
中国古代の殷末、孤竹国(現在の河北省唐山市付近とされる)では、孤竹君が三男の叔斉を後継に指名したため、長子の伯夷と叔斉は互いに王位を譲り合い、結局はともに国を去りました。
孤竹国では次男が後を継ぎ、二人は周の文王のもとで暮らしていましたが、文王の後を継いだ武王が殷の紂王を征伐する際にそれを諫めました。
武王が勝ち周の時代となってからは、周に従うことを恥として首陽山で野草を採って暮らしていましたが、やがて餓死してしまいます。
司馬遷の問い
司馬遷は、正しい行いをしている者がなぜ餓死するのか、孔子の弟子である顔淵はなぜ夭折しなければならなかったのかと、問いかけます。
続けて、悪事を働くものが寿命を全うするのは何故なのか、正しい行いをすることで災いに遭遇するのは何故かと問いを重ねます。
わたしははなはだ当惑する。もしかすると天道といわれるものがただしいのか、ただしくないのか。
小川環樹、今鷹真、福島義彦(2015)『史記列伝(一)』岩波書店 p.12
理不尽な世界への疑問と、真実を求める心は、現代にも通じるものがあります。
正しい行いをした果てに餓死した伯夷と叔斉、李陵を弁護したことで宮刑となった司馬遷。正しい行動がなぜ災いを招くのか?
この後に続く、さまざまな歴史上の人物の人生も照らし合わせながら読み進めたいと思います。