※このブログは一般的なアニメの評価や考察、感想記事とは異なります。作品を通して個人的な人生観を記録したライフログです。
原作者やアニメ制作会社の意図と記事内容は、必ずしも一致しないことをご了承ください。
同族嫌悪
称賛も報酬もない、助けても感謝されることすらない、そんな勇者刑の罪人でありながら、他者のために闘うことを選択するザイロ。
テオリッタはそれが女神の本質と同じだと指摘する。
ザイロの行動は、他者の評価ではなく自分の心が決めている。テオリッタは、その心が人々を救うことを目的として生きる女神と本質的に同じだという。
テオリッタの指摘を否定できないザイロ。
ザイロは自己犠牲は馬鹿げていると思いながらも、他者を犠牲にすることを受け入れられない。
他者を見捨てることは、自分の本質を見捨てることと同じだと感じているのかもしれない。
ザイロはこれまで、自己犠牲を厭わないテオリッタに、一貫して身を守れと指示してきた。
自己犠牲は自分だけで良い。女神を犠牲にしたくない。なぜなら、女神を犠牲にする罪悪感をこれ以上背負いたくないから。
自己犠牲は美談ではない
私は自己犠牲が美しいとは思わない。確かに、誰かのために命を懸ける、命を救うために行動すること自体は美談とされる。
しかし、救われた方はどうだろうか。自己犠牲をした相手が、もし死んでしまったら、私は苦しいと感じる。
自分のために苦痛を受けたと知ったのなら、それを本人が苦痛だと思っていなかったとしても嫌だ。これは、自己犠牲によって救われたものが抱く罪悪感だと思う。
自己犠牲は人を幸せにしないのではないか。
自己犠牲ではなく、人も自分も犠牲にならない道を探すことはできないのだろうか。
自己犠牲の裏にある罪悪感
ザイロの心には、自己犠牲と表裏の関係で罪悪感がある。
坑道のエピソードでも救って欲しいと必死に願う少女が登場し、その時ザイロは迷った。
救うことが難しい、救わねばならない。
救わねば後悔するだろう。
見捨てることは罪悪感を背負う。
罪悪感を背負って生きるくらいなら、自己犠牲の道を選ぶ。
ザイロにとっての自己犠牲は本能的な選択であり、罪悪感からの解放なのではないか。
そこに葛藤も苛立ちもある。
それでも最後は自己犠牲を選ぶ、ザイロはそういう性格なのかもしれない。
セネルヴァへの罪悪感
女神は、自己犠牲を厭わない。そういう使命を持って生まれてきたのだと、誇りにさえ思っている。
人を救いながら、その報酬として求めるものは使命達成への感謝と称賛のみ。
身を削り、痛みを受けても戦い続け、女神としての生き方を貫いた。
セネルヴァの本質は女神。
その女神の本質を失う行動を取る状況とは、女神の魂の死を意味するから、ザイロは魂を救ったと言える。
しかし、ザイロは自分ではなく女神を犠牲にしたことに、強い罪悪感を抱いている。
女神との共闘
女神は人間を守るためにこの世に現れる存在。
そして、テオリッタは「それが仕事ですから」と断言し、ザイロに「戦いに勝利すること」だけを考えるよう示す。
ザイロにとって「仕事と割り切れ」という助言は、この場において最適だったのではないか。
本能のままに動く勇者たち
チームワークの欠片もない、それぞれが独立した価値観で行動する勇者刑の面々。
ザイロが主導しているようでも、彼らは思い通りには動かない。それでも、ドッタやツァーブの能力や特徴を把握しており、それぞれを自由に行動させている。
結果として、ドッタが本能的に盗むべきと判断した棺桶(テオリッタ)が危機を救い、ザイロに従うことを選んだツァーブが遠方から戦いをサポートする。
誰にでも本能的に得意なことがある。それを突き詰めていくことには意味があると思う。
他は絶望的にダメだったとしても、その得意なことが彼らに居場所を作る。そして、その能力がここにいてくれなくては困る存在に彼らを昇華する。
そう考えると、得意な事を伸ばすことは、苦手なものを克服するよりはるかに価値があると思える。
覚悟
ザイロはテオリッタとの共闘のなかで、ある覚悟を決めた。
それは、女神の生死を決め、罪悪感を背負う覚悟。
選択とその結果の責任を、真正面から直視する覚悟。
自分の本質にある生き方から目をそらさないと決めた。そして、全く同じ方向へ向かうというテオリッタと共に戦うことを選んだ。
ザイロはその責任を背負うことで、どのような状況であっても「勝利」だけを手にしなければならない。
女神も自分も犠牲にならない未来を得るために。

